この記事では、映画『リリイ・シュシュのすべて』の結末・ラストをネタバレありで解説し、この映画に関する疑問や謎を分かりやすく考察・解説しています。
映画『リリイ・シュシュのすべて』の結末・ラスト(ネタバレ)
映画『リリイ・シュシュのすべて』の結末は、非常に衝撃的で悲劇的なものとなっています。物語の終盤、主人公の蓮見と彼の友人である星野との関係が破綻していく様子が描かれます。星野は物語の途中で大きく変わり、いじめのリーダー的存在になっていきます。一方で、蓮見は現実世界での苦しみから逃れるため、リリイ・シュシュという架空の歌手の音楽に没頭し、インターネット上で「青猫」という名前で交流を続けます。
物語のクライマックスでは、蓮見が星野に命じられ、クラスメイトの久野と一緒に盗みを働く場面があります。星野は、蓮見を完全に支配し、彼の意思を奪ってしまいます。しかし、蓮見は内心ではこの状況に耐えきれなくなっており、彼が感じる絶望感がますます強まります。この絶望感が蓮見をさらに孤立させ、リリイ・シュシュの音楽にすがるしかない状況に追い込まれます。
映画のラストでは、久野が自殺を図るという悲劇が起こります。彼女は物語を通じていじめの犠牲者として描かれ、心に深い傷を抱えています。蓮見と久野の関係は決して良好ではありませんでしたが、久野の自殺によって、蓮見の心にさらに大きな影響を与えます。久野の死をきっかけに、蓮見は自分の無力さを痛感し、さらに深い絶望に沈んでいきます。
最終的に、蓮見は学校でリリイ・シュシュのライブを見ながら、星野を刺してしまいます。この行為は、蓮見がついに星野の支配から逃れようとする絶望的な試みであり、物語全体を通じて蓮見が抱えてきた内面的な葛藤が爆発する瞬間です。しかし、この行動が蓮見に救いをもたらすことはなく、彼は再び深い孤独の中に沈んでいきます。
映画の最後では、蓮見が一人で自転車を漕いでいるシーンが描かれます。彼はこれまでと同じように孤立し、周囲からも自分自身からも逃れることができません。このラストシーンは、物語全体を通して描かれてきた若者たちの孤独や絶望感を象徴しており、観客に強い余韻を残します。
この結末では、登場人物たちが抱える心の痛みや葛藤が解決されることはなく、彼らは依然として苦しみの中に取り残されます。『リリイ・シュシュのすべて』は、救いのない現実を描いた作品であり、登場人物たちが逃れられない孤独と絶望の中で生き続けるというメッセージを強く伝えています。
映画『リリイ・シュシュのすべて』の考察・解説(ネタバレ)
映画『リリイ・シュシュのすべて』が「気持ち悪い」と言われる理由は何か?
映画『リリイ・シュシュのすべて』が「気持ち悪い」と感じられる理由は、その内容が非常に暗く、残酷な描写が多いことにあります。この映画では、いじめや性的暴力、抑圧された人々の内面の苦しみがリアルに描かれています。特に、少年たちが経験する心の傷や孤立感が強調され、感情的に辛いシーンが多く含まれています。これにより、観客は非常に不安定で不快な感覚に襲われることがあります。
さらに、物語の進行において、人間関係がどんどん崩れていき、希望が見えない展開が続くため、観ている人に強い絶望感や不安感を与えます。登場人物たちが他者に対して暴力や嫌がらせを行う場面が多く、その描写が非常にリアルで残酷なため、視覚的にも精神的にも「気持ち悪い」と感じさせる要素が多いのです。
また、音楽や映像表現も非常に不安定で、暗く不穏な雰囲気が全体に漂っています。リリイ・シュシュという架空の歌手の音楽が映画の重要な要素として使われており、その幻想的な歌声が逆に現実の残酷さとの対比を際立たせています。このような不安定な感情と過酷な現実の描写が相まって、映画全体が「気持ち悪い」と感じられることが多いのです。
映画『リリイ・シュシュのすべて』の元ネタとされる事件とは?
映画『リリイ・シュシュのすべて』は、特定の事件に基づいて作られたわけではありませんが、いくつかの要素は日本で実際に起きた未成年によるいじめや暴力事件からインスピレーションを得ている可能性があります。特に、1990年代から2000年代にかけて、日本では中高生によるいじめや暴力の問題が社会的な注目を集めていました。映画で描かれる学校でのいじめや暴力的な支配構造は、当時の日本社会における現実の問題と重なる部分があります。
特に、星野がいじめの加害者として権力を振るい、周囲を支配していく姿は、実際の少年犯罪の加害者の姿と似ている部分があります。映画の中で描かれる暴力や嫌がらせの描写は、特定の事件に基づいているわけではありませんが、日本社会における未成年の暴力やいじめ問題に対する不安や恐怖を反映していると考えられます。
また、リリイ・シュシュという架空の歌手とその音楽に依存する登場人物たちの姿は、インターネットを通じて個人が孤立し、現実から逃避する姿を象徴しています。このように、映画は現実の問題を反映しつつも、直接的な事件というよりは、当時の社会的な状況や問題をテーマにしていると考えられます。
映画『リリイ・シュシュのすべて』で星野はなぜ豹変してしまった?
映画『リリイ・シュシュのすべて』で星野が豹変する理由は、彼が抱える内面的な孤独や抑圧、そして自分の無力感に対する反発から来ています。物語の序盤で星野は、仲間と共に無邪気な少年の姿を見せていますが、彼の生活が変わるきっかけは修学旅行での溺れかける事件です。この事件を境に、彼の性格や行動が一変します。
星野は、修学旅行の際に溺れかけたことで、自分の無力さや人生に対する不安を強く感じるようになります。彼はその経験から、周囲に対して支配的な態度を取るようになり、いじめの加害者へと変貌していきます。星野は、自分が弱者として見られることを恐れ、その恐怖を覆い隠すために他者を支配し、暴力を振るうようになります。
また、家庭環境や大人たちとの関係も星野の変化に影響を与えています。星野は家庭での愛情や支えを十分に得られていないため、心の安定を欠いています。彼の暴力的な行動は、内面的な孤独や疎外感、そして自分の存在意義に対する疑念が重なった結果です。彼は暴力を通じて、自分が誰かに認められたい、存在感を示したいという欲求を満たそうとしているのです。
このように、星野の豹変は、彼の心の中で抱える深い孤独感や不安、そして自分の無力さに対する反発から来ており、それが暴力という形で周囲に現れることになります。
映画『リリイ・シュシュのすべて』の青猫の正体とは?
映画『リリイ・シュシュのすべて』に登場する「青猫」とは、物語の中でインターネット上のリリイ・シュシュファンが集まる掲示板でのハンドルネームです。この青猫の正体は、主人公の少年、蓮見です。映画の中で、蓮見は現実世界での辛い日常から逃れるために、インターネット上でリリイ・シュシュの音楽に没頭し、仮想空間で「青猫」という名前を使って自分の感情を表現しています。
蓮見は、現実の学校生活や家庭での孤独やいじめに苦しんでいます。そのため、彼にとってインターネットは現実から逃れるための場所であり、「青猫」という名前を通じて、自分の内面の苦しみや絶望を吐き出す場となっています。彼は現実では弱い立場にいますが、ネット上では「青猫」として自分を表現し、他のリリイ・シュシュのファンたちと交流しています。
青猫という名前は、蓮見が抱える孤独や内面的な痛みを象徴しており、映画の中で現実世界とネットの世界が交差する重要な要素となっています。リリイ・シュシュの音楽が蓮見にとっての救いである一方で、青猫という存在もまた彼が現実から逃避するためのもう一つの顔です。このように、青猫は蓮見自身の一部であり、彼が現実と向き合えずに逃げ込んだ仮想の世界を象徴しています。
映画『リリイ・シュシュのすべて』が鬱映画と言われる理由は何か?
映画『リリイ・シュシュのすべて』が「鬱映画」と呼ばれる理由は、そのテーマや描写が非常に暗く、絶望感に満ちているからです。映画では、いじめや暴力、性的虐待、孤独といった重いテーマがリアルに描かれており、登場人物たちが希望を見いだすことなく苦しみ続ける姿が描かれます。このような過酷な状況が終始描かれるため、観客に強い感情的なダメージを与える作品となっています。
物語の中心となるのは、現実世界でのいじめや絶望に直面する少年たちの姿です。主人公の蓮見や星野たちは、それぞれが孤立し、心に深い傷を負っていますが、その苦しみから救われることはありません。彼らが置かれた過酷な状況や、逃げ場のない環境が観客に重くのしかかり、希望の光が見えない展開が続くため、多くの人が「鬱映画」と感じるのです。
また、音楽や映像も暗い雰囲気を強調しており、リリイ・シュシュの幻想的な音楽が物語の中で救いのように描かれる一方で、その音楽にすがることで現実逃避する登場人物たちの姿が、逆に現実の残酷さを強調しています。このように、映画全体が観客に強い不安感や絶望感を抱かせるため、「鬱映画」として評価されることが多いのです。
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