この記事では、映画『水曜日が消えた』の結末・ラストをネタバレありで解説し、この映画に関する疑問や謎を分かりやすく考察・解説しています。
映画『水曜日が消えた』の結末・ラスト(ネタバレ)
映画『水曜日が消えた』の物語の結末は、主人公の斎藤数馬が自分の多重人格と向き合いながら新たな日常を受け入れていく様子を描いています。物語全体を通じて、彼の中に存在する7つの人格が曜日ごとに切り替わりながら生活をしていることが明らかになります。しかし、「水曜日」の人格が突如として消失し、他の曜日の人格や斎藤自身に影響を与え始めます。
ラストでは、斎藤が自身の状況を完全に理解し、残った人格たちとの共存を目指す姿勢が強調されます。「水曜日」の消失の理由は最後まで明確には語られませんが、他の人格たちが互いに協力し、日常生活を維持するための仕組みを模索する様子が描かれています。エンドロールでは、人格ごとに残された付箋やメモが示され、それぞれの人格が情報を共有し合うことで新しい秩序を作ろうとしていることが暗示されます。
この結末は、「水曜日」の人格の謎が解けるわけではなく、むしろ観客に斎藤や人格たちの未来を想像させる形で終わります。主人公が多重人格という複雑な状況を受け入れ、他の人格たちと共存するための道を選んだことが、物語の核心として示されています。このオープンな結末が、映画の持つ独特な余韻を残す要因となっています。
映画『水曜日が消えた』の考察・解説(ネタバレ)
映画『水曜日が消えた』で安藤はなぜ改ざんした?
安藤は、主人公である斎藤数馬が抱える多重人格の記録を改ざんしていました。その理由は、斎藤を守るためです。安藤は斎藤の行動や人格の切り替わりを日々観察し、詳細に記録を残していました。しかし、斎藤が自身の多重人格の真実を知った場合、それが彼の精神的な苦痛を大きくし、生活にも悪影響を及ぼすと考えたため、あえて真実を隠しました。
安藤が改ざんした記録には、特定の人格がとった行動や消えた人格についての情報が含まれている可能性があります。これによって、斎藤がそれ以上自分の状態について疑問を持たないように配慮していたのです。この改ざん行為は、安藤の善意からくるものでしたが、同時に斎藤に対して完全な真実を伝えないというジレンマも抱えていました。この行動は、安藤が斎藤をどれほど気遣っていたかを示すと同時に、物語の謎めいた雰囲気を深める要素となっています。
映画『水曜日が消えた』が意味がわからないと言われる理由は?
映画『水曜日が消えた』が「意味がわからない」と言われる理由は、そのタイトルの抽象的な印象にあります。映画を観る前の段階では、「水曜日が消えた」という言葉が具体的に何を意味しているのか分からず、観客に混乱を招くことがあります。しかし、映画を進めると、このタイトルが主人公の斎藤数馬の多重人格に関連していることが明らかになります。
具体的には、斎藤の中には7つの人格が存在しており、それぞれが週の特定の日に入れ替わりで表に出て生活を送っています。しかし、ある時点で「水曜日」の人格が突然消えてしまい、その影響が他の人格や斎藤自身に波及します。この設定が物語の核であり、「水曜日が消える」という出来事が他の人格や斎藤の生活にどのように影響を与えるかが描かれています。
映画の内容を知らない状態でタイトルを見ると、その意味がつかみにくいため、「分かりづらい」と感じる人がいるのも無理はありません。しかし、映画の中で明らかになる設定と結びつけて考えると、タイトルが物語の本質を象徴する重要な要素であることが理解できます。
映画『水曜日が消えた』がパクリと言われる理由は?
『水曜日が消えた』がパクリと言われる理由は、その設定が映画『セブン・シスターズ(2016)』と似ていると指摘されている点にあります。『セブン・シスターズ』では、7つ子の姉妹がそれぞれ週の特定の日に外出し、1人の人格「カレン・セットマン」を演じるという設定が物語の核となっています。一方、『水曜日が消えた』は主人公の斎藤数馬が7つの人格を持ち、それぞれが曜日ごとに入れ替わるという設定です。
これらの共通点から、「似た設定を利用している」との批判が一部で出ています。ただし、両作品のテーマや展開、キャラクターの描写には大きな違いがあります。『セブン・シスターズ』がディストピア的な社会問題を扱っているのに対し、『水曜日が消えた』は主人公の内面や人格の謎に焦点を当てた物語です。そのため、「似ている部分があるが、単純にパクリとは言えない」とする意見も多いです。
映画『水曜日が消えた』に気まずいシーンはある?
『水曜日が消えた』には、暴力やセクシャルなシーンがほとんどなく、気まずさを感じる場面は少ない作品です。物語は主人公の斎藤数馬が抱える多重人格という独特の設定を中心に展開されるため、主に心理的な葛藤や謎解きの要素に焦点が当てられています。
ただし、斎藤が他の曜日の人格に関する手がかりを探る過程で、他の人格が行った行動が明らかになる場面では、一部の観客にとって居心地の悪さを感じるかもしれません。特に、自分の知らないうちに別人格が何か重大な行動をしていたことが判明する瞬間は、主人公の視点から見て困惑や不安を強調しています。このようなシーンは、観客にも同様の緊張感を伝える意図があります。
全体的に見て、映画は過激な描写を避けつつ、心理的なミステリーを中心に展開しているため、直接的に気まずさを感じるシーンはあまりありません。その分、静かで思索的な雰囲気を楽しむ映画となっています。
映画『水曜日が消えた』のエンドロールの付箋の意味は?
映画のエンドロールに登場する付箋には、それぞれの人格がその日の出来事や情報を記録したメモが書かれています。この付箋は、多重人格を抱える主人公斎藤数馬の生活において、重要な役割を果たしているアイテムです。各人格が、他の人格とのつながりを保つために、情報を交換する手段として使用されています。
このメモの存在は、彼が多重人格であるがゆえに直面する日々の混乱や、人格ごとに異なる視点から物事を見ていることを象徴しています。エンドロールで付箋が登場することで、観客は彼の生活の中で情報共有がどれほど重要であったかを改めて理解することができます。また、各人格が付箋を通じて互いに影響を与え合いながら生活している様子は、映画のテーマである「協調」と「自己受容」を表しています。
この付箋の描写は、物語の余韻を深めるとともに、斎藤数馬がどのようにして複雑な状況の中で生きてきたかを静かに伝える象徴的なシーンです。
映画『水曜日が消えた』に怖いシーンはある?
『水曜日が消えた』には、いわゆるホラー的な恐怖を感じさせるシーンはありません。ただし、多重人格をテーマにしていることから、記憶が欠落することへの不安や、自分が知らない間に別人格が何をしていたのか分からない恐怖感は感じられる場面があります。
特に、斎藤数馬が「水曜日」の人格が消えた後に、その影響で日常生活が大きく変化していく過程は、心理的なスリルを与えます。彼が他の人格の行動に翻弄され、自分の意志とは無関係に物事が進んでいく感覚は、観客にも不安感を共有させる要素となっています。
また、自分の中に複数の人格が存在しているという事実そのものが、アイデンティティに関する深い問いかけを投げかける部分があり、これも一種の心理的な怖さを生み出しています。しかし、この怖さは視覚的な恐怖ではなく、むしろ内面的な不安として描かれています。そのため、観客に深い印象を与える要素として機能しています。
映画『水曜日が消えた』の黒幕は?
映画『水曜日が消えた』には、物語を大きく動かす明確な黒幕と呼べる存在は描かれていません。主人公である斎藤数馬の多重人格障害という設定が中心であり、「水曜日」の人格が消えた原因や背景も明確に語られないため、観客自身がその謎を考察する形となっています。
「水曜日」の人格が消えたことにより、斎藤の中での人格間のバランスが崩れ、それが彼の日常生活にさまざまな影響を及ぼします。しかし、他の曜日の人格や外部の誰かが意図的に「水曜日」を排除したといった描写はなく、消失の理由は自然発生的なものと考えられています。この曖昧さが物語の神秘性を高める要素となっており、「黒幕」の存在を意識させない構成となっています。
むしろ、「水曜日」の消失そのものが象徴的なテーマとして機能しており、主人公が自己と向き合い、複雑な人格の共存をどう受け入れていくかが物語の焦点になっています。そのため、「黒幕」を探すよりも、映画が描こうとしている心理的なテーマや、多重人格を通じて浮かび上がる人間の内面性に注目することが求められます。
映画『水曜日が消えた』に元ネタはある?
『水曜日が消えた』には元ネタと呼べるような直接的な作品は存在しませんが、一部の観客や評論家からは映画『セブン・シスターズ(2016)』との類似性が指摘されています。『セブン・シスターズ』では、7つ子の姉妹がそれぞれ特定の日だけ外出し、1人の人物「カレン・セットマン」として社会生活を送るという設定が物語の核となっています。一方、『水曜日が消えた』では、主人公斎藤数馬の中に7つの人格が存在し、それぞれが曜日ごとに入れ替わるという設定が特徴です。
両作品における「7つの人格」「曜日ごとの切り替わり」という点が似ているため、影響があったのではないかと推測する声もあります。しかし、『水曜日が消えた』は日本オリジナルの脚本として制作されており、直接的な元ネタではなく、設定の偶然の一致か、似たテーマを扱った別の解釈として見るべきです。
映画自体は、斎藤の内面の葛藤や人格の謎を中心に描いており、ディストピア的な背景を持つ『セブン・シスターズ』とは物語の方向性が大きく異なります。このため、「元ネタ」というよりも、「似たコンセプトを持つ別作品」として位置づけられるのが適切です。
映画『水曜日が消えた』の小説と映画の違い
『水曜日が消えた』はオリジナル脚本に基づいて制作されており、原作となる小説や他の書籍は存在しません。この映画は完全に映像作品として企画され、脚本が初めて書き起こされたものです。そのため、小説と映画の違いを比較することはできません。
映画の物語や設定は、観客に対して視覚的・感覚的な体験を提供するように構成されています。このアプローチは、映画という媒体の特性を最大限に活かしたものです。特に、多重人格の切り替わりや「水曜日」の消失というテーマは、映像や音響を通じて描写することで、観客に強い印象を与える工夫がされています。
オリジナル脚本である点は、映画がそのテーマや物語をより自由に展開できた理由の一つです。また、小説がないために先入観なく映画を楽しめるという利点もあり、純粋に物語と演出を評価することができます。
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