この記事では、映画『ジョーカー(2019)』の結末・ラストをネタバレありで解説し、この映画に関する疑問や謎を分かりやすく考察・解説しています。
映画『ジョーカー(2019)』の結末・ラスト(ネタバレ)
映画『ジョーカー』のラストは、主人公アーサー・フレックが完全に「ジョーカー」として覚醒する衝撃的な結末を迎えます。物語の終盤で、アーサーは視聴者を魅了するテレビ番組に出演する機会を得ますが、出演中に突如司会者のマレーを射殺します。この行為は、彼の内面に潜む怒りと絶望が最高潮に達した瞬間を象徴しています。
その後、アーサーの行動をきっかけにゴッサム市内で暴動が発生し、彼は暴徒によって崇拝される存在となります。警察に逮捕されたアーサーが護送中のパトカーを暴徒が襲撃し、彼は救い出されます。暴徒たちの中心に立ったアーサーは、彼らに歓声を浴びながら、自分がついに「ジョーカー」という存在へと完全に変貌したことを感じ、満足げに踊ります。
ラストシーンでは、アーサーが精神病院のような場所に収容されている様子が描かれます。彼は担当者と会話を交わしながら静かに笑いますが、その後、画面は彼が病院の廊下を血の跡を残しながら歩く姿に切り替わります。この描写は、アーサーが現実と妄想の境界を完全に失い、彼自身の新たな道を進むことを象徴しています。
物語の結末は明確な答えを示さず、観客に多くの解釈を委ねています。アーサーの行動は正義の欠片もない暴力的なものですが、彼の背景にある孤独や絶望を知ることで、観客は単純に彼を「悪」として捉えることが難しくなります。この結末は、アーサーの悲劇的な変貌を強調すると同時に、社会の冷たさや不平等がどのように個人を追い詰めるかを深く考えさせるラストとなっています。
映画『ジョーカー(2019)』の考察・解説(ネタバレ)
映画『ジョーカー(2019)』がえぐいと言われるのはなぜ?
映画『ジョーカー』が「えぐい」と言われる理由は、主人公アーサーの過酷な人生と、彼が抱える精神的苦悩が非常にリアルで辛辣に描かれているためです。アーサーは幼いころから母親のペニーに虐待されて育ち、さらに彼女が精神疾患を抱えていたため、愛情を受けることができませんでした。また、アーサー自身も病気により突発的に笑い出してしまう発作を抱え、周囲から奇異の目で見られ続けます。
社会的な孤立や貧困、失業といった現実的な問題もアーサーを追い詰める要因です。さらに、彼が一度信じた人々や希望までもが裏切りや無関心で打ち砕かれ、自ら暴力的な行動に走るまでの過程が非常に生々しく描かれています。この映画のえぐさは、単なるフィクションとしてではなく、現実世界で実際に起こり得る問題や人間関係の冷たさを反映しているところにあります。
映画『ジョーカー(2019)』でアーサーがゲイリーを殺さなかった理由は?
アーサーがゲイリーを殺さなかった理由は、ゲイリーが唯一アーサーに対して親切に接していた人物だったからです。作中で、アーサーは冗談半分で「君だけが僕に優しかった」とゲイリーに語りかける場面があります。この言葉からも分かるように、ゲイリーはアーサーが職場で孤立している中でも親切な態度を見せ、彼の心の支えとなる存在でした。
このシーンは、アーサーが完全に暴力的なモンスターに成り果てたわけではなく、彼の中にわずかに残る人間性を示す重要な瞬間です。ゲイリーを見逃す行為は、アーサーの行動が完全な無差別的暴力ではなく、彼の人生における人間関係や過去の経験に深く結びついていることを示しています。
映画『ジョーカー(2019)』が悲しすぎると言われるのはなぜ?
映画『ジョーカー』が「悲しすぎる」と言われる理由は、主人公アーサーの生い立ちや境遇が非常に不幸で、観ている観客に深い哀しみを抱かせるからです。アーサーは幼いころから虐待を受け、母親との関係も歪んだものとなっています。また、社会からも孤立しており、どれだけ努力しても笑い者にされるという冷たい現実が繰り返し描かれます。
さらに、物語が進むにつれてアーサーの希望は次々と打ち砕かれ、最終的に精神が崩壊し、ジョーカーという暴力的な存在へと変わっていきます。この過程は、彼が元々善良な人間でありながらも、環境や社会によって追い詰められていったことを如実に示しており、観客に「もし自分が彼の立場だったら」という考えを抱かせます。そのため、単なる悲劇を超えた深い哀しみを感じる作品となっています。
映画『ジョーカー(2019)』を観ているとおかしくなる?
映画『ジョーカー』を観ていると「おかしくなる」と言われる理由の一つは、アーサーの境遇や心の変化があまりに辛辣でリアルに描かれているためです。彼の孤独や絶望が観客に強烈に伝わることで、自分自身が感情的に引き込まれ、不安や重圧を感じる人も多いです。彼の人生が破綻していく様子が次第に過激になり、観る側にも精神的な影響を与えます。
さらに、映画の演出も「おかしくなる」と感じさせる要素の一つです。暗く閉塞感のある映像や、不協和音を強調した音楽、予測不能な展開が緊張感を煽り、観客の心をかき乱します。特に、アーサーが妄想と現実の区別がつかなくなり、次第にジョーカーとして覚醒していく過程が、観客にもその錯乱を体感させるように描かれている点が特徴的です。
こうした要素が相まって、観る人によっては映画が自分の感情や精神状態に影響を与えると感じられるため、「おかしくなる」と言われることがあるのです。
映画『ジョーカー(2019)』で時計が11時11分を示している理由を考察
映画『ジョーカー』で時計が11時11分を示している場面は、象徴的な意味が込められていると考えられています。「11時11分」という数字は、スピリチュアルな文脈では何か大きな変化や新たな始まりを意味すると言われることがあります。この映画では、アーサーが精神的に崩壊し、ジョーカーとしての人格が完全に覚醒する瞬間を象徴しているのではないかと考察されています。
また、数字の「11」は鏡のような形状をしており、アーサーが自身の現実と妄想の境界を越え、全く異なる存在へと変わっていく「転換点」を表しているとも解釈できます。映画の中でのこの時間の描写は、アーサーの内面世界と現実世界の混乱や、彼が完全にジョーカーというキャラクターに生まれ変わる暗示的な要素として重要な意味を持つと言えます。
映画『ジョーカー(2019)』が意味わからないと言われるのはなぜ?
映画『ジョーカー』が「意味わからない」と言われる理由は、物語が非常に主観的で、現実と妄想の境界が曖昧に描かれているからです。アーサーの過去や彼が体験する出来事の多くは、観客にとって真実かどうかが最後まで明確になりません。例えば、彼が近隣の女性ソフィーとの関係を妄想していたことが判明する場面は、映画全体が彼の視点で語られているため、それ以前の出来事も本当に起きたのか疑問を抱かせます。
また、映画は特定の結論や教訓を示すことを目的としておらず、むしろ観客に多くの解釈の余地を残しています。これにより、物語の主題や結末に対して混乱する人が多く、「意味がわからない」と感じる要因となっています。映画の不安定な語り口が、観客に深い考察を促す一方で、理解しにくいという印象を与えているのです。
映画『ジョーカー(2019)』でバットマンとジョーカーの繋がりは?
映画『ジョーカー』では、バットマンとジョーカーの関係を暗示する描写がいくつか含まれています。特に、アーサーとトーマス・ウェインの関係が物語の中核に位置しており、トーマス・ウェインの息子であるブルース・ウェイン、後のバットマンとの繋がりが示されています。物語の中で、アーサーはトーマスが自分の実の父親ではないかと疑い、彼に接触しようとします。この展開は直接的な家族の繋がりを否定される形で終わりますが、アーサーがウェイン家と関わる中で、ブルースの登場シーンが描かれています。
さらに、物語の終盤、ジョーカーとなったアーサーの行動が都市全体に混乱を引き起こす中、トーマスと妻マーサが暴徒に襲われて死亡する場面が描かれます。このとき、唯一生き残ったブルースが、両親の死をきっかけに後にバットマンとなるという伝統的な設定が想起されます。直接的な対立関係は描かれませんが、この事件がブルース・ウェインにとっての原点となり、ジョーカーがそのきっかけを作った人物として描かれている点が両者の繋がりを強調しています。
映画『ジョーカー(2019)』で主人公アーサーが冷蔵庫に入ったのはなぜか考察
アーサーが冷蔵庫に入るシーンは、映画の中でも特に象徴的で謎めいた場面です。この行動については、いくつかの解釈が考えられます。一つは、アーサーが現実世界から逃れ、自分だけの安全な空間を求めたという心理的な行動です。冷蔵庫は外界との接触を断つ閉じた空間であり、アーサーが孤独や絶望感に押しつぶされ、自らの内面に閉じこもろうとしたことを示唆している可能性があります。
もう一つの考察は、冷蔵庫に入る行為が象徴的な「死」を意味しているというものです。この行動は、彼が現実世界のアーサーとしての人生を終え、新たにジョーカーという存在として生まれ変わる転換点であると解釈されます。冷蔵庫が妄想の世界への入口であるという意見もあり、現実から完全に乖離し、アーサーが自身の妄想の中で新たな人格を確立する瞬間であるとも言えます。
このシーンは具体的な説明がないため、観客に解釈を委ねる形となっており、物語の曖昧さを際立たせる要素となっています。
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