この記事では、映画『ジョーカー(2019)』の結末・ラストをネタバレありで解説し、この映画に関する疑問や謎を分かりやすく考察・解説しています。
映画『ジョーカー(2019)』の結末・ラスト(ネタバレ)
物語の最後、アーサー・フレックは完全に「ジョーカー」として変貌します。これまで彼は、社会に馴染めず、仕事もうまくいかず、周囲の人からも笑われてきました。自分が誰からも愛されず、無視され続けることに苦しんでいましたが、最終的に彼の内にあった怒りと絶望が爆発し、暴力的な行動に走ります。
映画のクライマックスで、アーサーは人気トークショーの司会者であるマレー・フランクリンの番組にゲストとして招かれます。アーサーは、マレーを尊敬していましたが、過去に彼が自分をテレビで笑いものにしたことを根に持っています。番組の生放送中、アーサーは自分が地下鉄で3人の若者を殺したことを告白し、その後、司会者のマレーをその場で銃で撃ち殺してしまいます。アーサーのこの行動は、ゴッサム・シティでの暴動の引き金となり、多くの人々が彼に影響され、暴力行為を起こすようになります。
アーサーは警察に逮捕され、パトカーで連行されますが、その途中で暴動を起こしていた群衆によって救出されます。彼は車から引きずり出され、群衆の前に立ちます。その時、アーサーは自分が「ジョーカー」として完全に受け入れられ、彼をヒーローのように崇める群衆に囲まれながら、自らの血で笑顔のメイクを作ります。アーサーはついに自分の存在が認められたと感じ、満足げに群衆の前で踊ります。このシーンは、彼がついに「誰か」に変わり、自分の価値を見出した瞬間です。
映画の最後、アーサーは精神病院に収容されている場面が描かれます。彼は担当医師と話していますが、心の中で笑っている様子が見て取れます。医師が何を笑っているのか尋ねると、アーサーは「あなたにはわからないよ」と答えます。その後、アーサーは病院の廊下を歩き、医師を殺害したことが暗示されるシーンで映画は幕を閉じます。彼が自由になったのか、それとも全てが妄想だったのかは明確にされていません。
この結末は、アーサーが社会の底辺で無視されてきた人間から、最終的に社会の混乱の象徴として「ジョーカー」という存在になったことを示しています。彼の行動は、ただの個人的な復讐ではなく、社会全体への挑戦であり、その結果として彼は混乱と暴力の象徴となりました。このラストシーンは、観客に強い印象を与え、映画全体のテーマである「社会からの疎外」や「自分の存在意義」を深く考えさせるものです。
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映画『ジョーカー(2019)』の考察・解説(ネタバレ)
映画『ジョーカー(2019)』は、どの辺りが「えぐい」と言われているのか?
『ジョーカー(2019)』が「えぐい」と言われる理由は、その暴力描写や心理的な深刻さ、そして主人公アーサー・フレックの精神的な崩壊がリアルに描かれているからです。物語の中で、アーサーが徐々にジョーカーとしての本性を表していく過程が非常にショッキングで、多くの観客にとっては心に重く響く場面が多々あります。
特に、暴力シーンが「えぐい」とされる理由は、その描写が非常に現実的で生々しいことにあります。例えば、アーサーが地下鉄で若者たちに襲われた際、彼は自衛のために彼らを射殺します。このシーンでは、彼が相手を撃ち殺す際の冷酷さや、その後の逃亡の様子が緊張感に満ちており、観客に強烈なインパクトを与えます。
また、後半でアーサーが自宅で同僚のランドルを殺すシーンも、暴力の突然性とその残酷さが「えぐい」と感じられる要素です。この場面では、アーサーが感情を爆発させてランドルを激しく刺し、その後彼の死体の前で冷静に振る舞うという極端な対比が観客に強い衝撃を与えます。この瞬間、アーサーの心が完全に壊れ、ジョーカーへと変貌したことが明確に示されるのです。
さらに、アーサーがトークショーに出演し、司会者のマレー・フランクリンを突然撃ち殺すシーンも、非常に衝撃的で「えぐい」部分として挙げられます。彼が生放送中に冷静に銃を取り出し、躊躇なく殺害する姿は、観客に恐怖と不安を感じさせます。これらの暴力的なシーンは、その描写の生々しさとアーサーの心理状態の変化をリアルに見せつけるため、「えぐい」と表現されることが多いです。
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映画『ジョーカー(2019)』でジョーカーがゲイリーを殺さなかった理由とは?
『ジョーカー(2019)』でアーサー・フレック(ジョーカー)が同僚のゲイリーを殺さなかった理由には、いくつかの解釈があります。物語の中盤で、アーサーは自宅でランドルを殺害しますが、同じ場面にいたゲイリーには危害を加えず、逃がしてやります。この行動は、ジョーカーの複雑な心理を反映していると言えます。
まず、ゲイリーはアーサーに対して友好的で、映画の中で彼に対して特別な悪意を持っていなかったキャラクターです。アーサーは、長い間社会から孤立し、同僚や他の人々から嘲笑や軽視を受けてきましたが、ゲイリーだけは彼に優しく接していました。そのため、アーサーはゲイリーを殺す理由がなく、彼に対して感謝の気持ちや恩義を感じていた可能性があります。ゲイリーが善良なキャラクターであったため、アーサーは彼を殺すことを選ばなかったのです。
また、ランドルとは対照的に、ゲイリーは物理的にも精神的にもアーサーに対して脅威を感じさせる存在ではありませんでした。ランドルはアーサーを裏切り、彼が不安定な精神状態にあることを他の人々に告げ口するなど、アーサーに対して裏切りや敵意を示していました。そのため、アーサーはランドルを殺すことで復讐を果たしますが、ゲイリーにはそのような感情がなかったのです。
さらに、ジョーカーの中には独自の「倫理観」が存在するという解釈もあります。アーサーは、裏切り者や自分を傷つけた者に対しては容赦しませんが、逆に自分に親切にしてくれた人間には恩を返す、ある種の独自の道徳観を持っていると考えられます。ゲイリーを逃がすシーンは、そのようなアーサーの心理を表現したものであり、彼の行動には単純な暴力以上の背景があることを示しています。
この場面は、ジョーカーがただの冷酷な殺人者ではなく、彼なりのルールや感情があることを強調する重要なシーンです。
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映画『ジョーカー(2019)』のジョーカーの悲しすぎる生い立ちとは?
映画『ジョーカー(2019)』の主人公アーサー・フレックの生い立ちは、非常に悲劇的で、彼がどのようにしてジョーカーへと変貌していくかを理解する上で重要な要素です。アーサーは幼少期から多くの苦しみや虐待を経験し、精神的に深い傷を負っています。この背景が、彼の心を次第に壊し、後にゴッサム・シティの犯罪者ジョーカーへと変わっていく理由の一つとなっています。
アーサーの母親、ペニー・フレックは精神的に不安定で、彼女自身も過去に多くの苦しみを抱えてきました。彼女はアーサーに「トーマス・ウェイン(バットマンの父)」が彼の実の父親だと信じ込ませていましたが、実際にはその話は彼女の妄想であることが明らかになります。これにより、アーサーは自分が愛されていなかったこと、さらには自分の存在そのものが否定されるような感覚を抱くことになります。
さらに、アーサーは子供の頃、母親の当時の恋人によって虐待されていたことも明らかになります。この虐待は彼の精神に深い影響を与え、彼の後の人格形成にも大きな影を落としています。また、アーサーは自身が持つ精神的な障害に悩まされ、笑いたくない時でも笑ってしまうという症状を抱えており、この障害が彼を社会から孤立させ、周囲の人々から理解されず、嘲笑される原因となっています。
彼の職業であるピエロとしての仕事も、彼にとっては楽しいものではなく、むしろ日々の生活を支えるために仕方なく続けているものです。彼はコメディアンとして成功したいという夢を持っていますが、その夢もまた、社会の冷酷な現実によって打ち砕かれます。アーサーが夢見ていた世界とは真逆の現実に直面し、彼は次第に社会への不満や怒りを募らせていきます。
こうした彼の生い立ちや過去の経験が、アーサーを絶望の淵へと追いやり、最終的には彼が自分の存在を証明し、社会に復讐する手段として「ジョーカー」という人物へと変わる大きな要因となります。彼の悲しすぎる生い立ちは、観客に同情を引き起こす一方で、彼が犯罪者となるまでの道のりを納得させるものとなっています。
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映画『ジョーカー(2019)』は見ているとおかしくなるのか?
『ジョーカー(2019)』は、非常に心理的に深い作品であり、観客に強烈な影響を与える映画です。そのため、視聴者の中には、この映画を見ていると精神的に不安定になる、つまり「おかしくなる」と感じる人もいるかもしれません。このように感じる理由は、映画が描くテーマや、主人公アーサー・フレックの精神状態が非常にリアルで、観客に不安や緊張を強く感じさせるからです。
映画全体を通じて、アーサー・フレックは精神的に崩壊していき、彼が現実と幻覚の間をさまようシーンが多く描かれます。アーサーは、自分が望む世界と現実の冷酷さとのギャップに苦しみ続け、最終的に自らの手で解放されようとします。このプロセスは、観客にとっても非常にストレスフルで、彼の苦しみや孤独を追体験させられるような感覚を与えます。
また、映画の視覚的な演出や音楽も、観客の不安を煽る効果があります。アーサーの内面の混乱を反映した暗い映像や不気味な音楽が、彼の心の中の葛藤を増幅させるため、観客もその不安定な世界に引き込まれることになります。こうした要素が、映画を観る人に「おかしくなる」ような感覚を抱かせる一因となっています。
さらに、映画のテーマ自体が非常に重く、社会の不平等や疎外感、そして人間の精神的な崩壊を描いているため、観客はアーサーの苦しみや怒りに共感しながらも、それが次第に暴力へと転じていく様子を目の当たりにすることになります。この過程は、観客にとっても精神的に過酷であり、映画を見終えた後に深い疲労感や不安感を感じることもあるでしょう。
映画『ジョーカー(2019)』は、視覚的な恐怖やショックで観客を驚かせる作品ではなく、主人公の内面を深く掘り下げ、その精神的な崩壊をリアルに描いています。そのため、観客がアーサーと共にその崩壊の過程を経験し、彼の感情に強く影響されることがあります。それが「おかしくなる」と感じられる理由の一つです。
ただし、映画を観て精神的に不安定になるかどうかは、個人の感受性や体験によって異なります。多くの観客は、この映画を通じて現代社会の問題を深く考えるきっかけを得ることができますが、アーサーの精神的な崩壊に共感しすぎると、観ている最中に不安を感じることもあるでしょう。
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映画『ジョーカー(2019)』の作品の時計が「11時11分」を示している理由についての考察
映画『ジョーカー(2019)』の中で、時計が「11時11分」を指している場面がいくつか登場します。この「11時11分」という時間には、特定の意味が込められていると考える人も多く、映画においては、物語の重要なテーマや象徴を暗示している可能性があります。
まず、「11時11分」は、いわゆる「エンジェルナンバー」として知られており、スピリチュアルな意味を持つ数字とされています。この数字は、しばしば新しい始まりや転機を象徴し、何か重要な変化が起きる兆しとされています。映画の中で、アーサーがジョーカーへと変わっていく過程において、この時間が示されることは、彼の人生が大きな転換点を迎えていることを示唆しているかもしれません。彼の精神状態が崩壊し、ジョーカーという新たな人格が誕生する瞬間を象徴する意味で「11時11分」が使われているとも考えられます。
また、この時間が映画に何度も登場することは、観客に現実と幻想の曖昧さを強調している可能性もあります。アーサーの精神状態は映画を通じて徐々に不安定になり、現実と妄想の区別がつかなくなっていきます。時計が同じ時間を指し続けることは、彼が繰り返し同じ現実に閉じ込められているか、あるいは時間そのものが彼にとっては意味を失っていることを示しているかもしれません。これにより、観客もアーサーの精神的な崩壊を共に体験し、彼の視点を理解しやすくなります。
さらに、時計が「11時11分」を指していることは、物語の中で不吉な出来事が近づいていることを予兆しているとも考えられます。アーサーがジョーカーへと変貌していく過程では、暴力や混乱が増していきます。この時間は、彼の内面的な変化と、それがもたらす破壊の前兆を示している可能性があります。
このように、「11時11分」という時間が繰り返し登場することで、映画の深層にあるテーマや象徴を強調しており、アーサーの変化や物語の転換点を暗示していると考えられます。
映画『ジョーカー(2019)』は、なぜ意味がわからないと言われているのか?
『ジョーカー(2019)』が「意味がわからない」と言われる理由は、物語が観客に明確な答えを提示せず、解釈の余地を残しているからです。この映画はアーサー・フレックの精神的な崩壊と社会からの孤立を描いていますが、彼が経験する出来事が現実なのか妄想なのかが曖昧に描かれている部分が多いため、観客にとっては混乱を招くことがあります。
例えば、アーサーがトークショーに出演して司会者マレーを殺害するシーンや、彼が自分の母親について知る真実など、物語の中で大きな出来事がいくつも起こりますが、それらが本当に現実に起きたのか、あるいはアーサーの幻想なのかが明確にされていません。また、映画のラストシーンでアーサーが精神病院にいるシーンも、彼の現実逃避や妄想が映画全体に影響していることを暗示しています。この曖昧さが、映画の意味を理解しにくいと感じる理由の一つです。
さらに、映画はジョーカーの誕生を描く一方で、社会の不平等や抑圧、人々の疎外感といったテーマも扱っていますが、それらのメッセージが必ずしも明確に伝わっていないと感じる観客もいます。アーサーの行動や動機が複雑で、彼が単なる被害者として描かれるのか、あるいは冷酷な犯罪者として描かれるのかが曖昧であるため、物語の全体像を理解するのが難しいと感じる場合があります。
また、アーサーがジョーカーになるまでのプロセスは、暴力的で混沌とした世界の中で進行しますが、その描写が直接的に説明されるわけではありません。彼の変貌がどのような社会的な背景や心理的な要因によって引き起こされたのかは、映画を通して観客自身が解釈することが求められます。このような構成が、映画を「意味がわからない」と感じさせる原因となっているのです。
総じて言えば、映画『ジョーカー(2019)』は、現実と妄想、社会的メッセージと個人の物語が複雑に絡み合っているため、一度の鑑賞だけでは全てを理解しきれない部分が多く、それが「意味がわからない」と評価される一因となっています。
映画『ジョーカー(2019)』とバットマンシリーズとの繋がりは?
『ジョーカー(2019)』は、バットマンシリーズに登場する有名な悪役ジョーカーの誕生を描いていますが、従来のバットマン作品とは直接的な繋がりを持っていません。この映画は、アーサー・フレックという一人の男が、ゴッサム・シティの過酷な社会環境や個人的な悲劇を通じて、どのようにしてジョーカーへと変貌していったかを描いています。
それでも、映画の中にはバットマンシリーズとの繋がりを示唆する要素がいくつか登場します。特に注目すべきは、トーマス・ウェインとその息子であるブルース・ウェイン(後のバットマン)との関係です。映画の中で、アーサーは自分の母親がトーマス・ウェインと関係を持っていたと信じており、トーマスが自分の父親だと信じ込んでいます。この展開は、アーサーがブルース・ウェインの異母兄弟かもしれないという推測を生み、バットマンシリーズとの関係性を示唆しています。
また、映画にはブルース・ウェインの幼少期の姿が描かれ、アーサーがウェイン家の屋敷を訪れた際に幼いブルースと出会うシーンがあります。この場面は、後にバットマンとジョーカーが宿命の対決を迎えることを予感させるものであり、二人の間に深い因縁があることをほのめかしています。さらに、映画のクライマックスで、トーマス・ウェインとその妻が暴徒によって殺害されるシーンは、バットマンのオリジンストーリー(彼の両親が殺されることで、ブルースが後にバットマンになる動機となる)の重要な要素として描かれています。
このように、『ジョーカー(2019)』は独立した作品でありながら、バットマンの世界と密接に関連する要素を含んでいます。特に、ブルース・ウェインの登場やウェイン家の運命が、アーサーのジョーカーとしての覚醒と並行して描かれることで、バットマンとジョーカーの関係が歴史的に深く結びついていることが示されています。
ただし、『ジョーカー(2019)』は従来のバットマンシリーズの設定や世界観とは一線を画し、ジョーカーの誕生を現実的で暗い社会問題として描いている点が特徴です。これにより、映画はバットマンのヒーロー映画としての要素よりも、個人の悲劇と社会の崩壊をテーマにしたドラマとして評価されています。
映画『ジョーカー(2019)』でアーサーが冷蔵庫の中に入るシーンの考察
映画『ジョーカー(2019)』の中で、アーサー・フレックが冷蔵庫の中に入るシーンは、物語の中でも特に印象的であり、観客に多くの解釈を促す場面の一つです。このシーンは、アーサーの精神的な崩壊を象徴する重要な瞬間であり、彼が自分自身を現実から切り離していく過程を示しています。
まず、冷蔵庫に入るという行動は、アーサーが極度の孤立感や疎外感を感じていることを反映していると考えられます。彼は社会から見捨てられ、周囲の誰にも理解されない存在であり、人生における温かみや人間関係を完全に失っています。冷蔵庫の中に自らを閉じ込める行為は、彼が心の中で感じている冷たさや孤独を象徴しており、外の世界から自分を遮断することで、さらに深い絶望感を表現しています。
また、このシーンは、アーサーが現実と自分の妄想の世界との間で境界を失いつつあることを示唆しています。映画を通して、アーサーは妄想や空想に逃げ込む場面が多く、冷蔵庫に閉じこもる行為もその延長として捉えられます。彼が冷蔵庫に入ることで、現実世界との繋がりを完全に断ち、彼自身の内面的な世界に閉じこもる象徴的なシーンであると言えます。この行動は、アーサーが現実逃避を選び、もはや正常な判断力を失っていることを強く示しています。
さらに、冷蔵庫の中に入るという行動は、彼が自己の「再生」を試みているとも解釈できます。冷蔵庫は保存や維持の象徴であり、アーサーが自分を「閉じ込める」ことで、新たな自分を作り出そうとしているようにも見えます。彼は冷たい場所に自らを閉じ込めることで、古い自分を一度捨て、ジョーカーという新たな存在として「再生」しようとしているのかもしれません。この行動は、彼がジョーカーとして完全に変貌するための一つのステップとして解釈できるのです。
このシーンは、アーサーがもはや社会的な枠組みや常識から完全に逸脱しており、精神的にも限界を迎えていることを象徴する重要な場面として、物語全体の緊張感をさらに高める要素となっています。
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