この記事では、映画『バード・ボックス』の結末・ラストをネタバレありで解説し、この映画に関する疑問や謎を分かりやすく考察・解説しています。
映画『バード・ボックス』の結末・ラスト(ネタバレ)
映画『バード・ボックス』の結末は、主人公のマロリーが二人の子どもたちと共に危険な旅を乗り越え、ついに安全な場所へたどり着くというシーンで終わります。
物語の舞台は、人々が「それ」を見ると自殺してしまうという恐ろしい世界です。マロリーは「それ」を見ないように目隠しをしながら、子どもたちと川を下って安全な場所を目指します。途中、激しい川の流れや森の中での危険な出来事がありましたが、彼女はなんとか二人の子どもたちを守り抜きます。
最後に、マロリーたちは盲学校にたどり着きます。ここは、視覚に頼らない人々が集まる安全な場所で、「それ」の影響を受けずに生活しています。盲学校に着いたマロリーは、久しぶりに安心した表情を見せます。彼女は子どもたちに名前をつけることを決心し、今まで「ボーイ」と「ガール」と呼んでいた二人に、それぞれ「トム」と「オリンピア」という名前を与えます。これは、彼女がこれまで感情を抑えて生きてきた過去と決別し、子どもたちを本当の家族として愛し、守る決意を示しています。
盲学校には、マロリーが妊婦検診のときに会ったラファム先生もいて、彼女たちを暖かく迎え入れます。学校の敷地内にはたくさんの鳥が飼われており、鳥たちの鳴き声で周囲の安全を確認し合うシステムが整っています。マロリーは、周囲の優しい人々や自然の中で、これまでの苦労が報われるかのように、ホッとした表情を見せます。
この結末は、マロリーと子どもたちがついに安全で平和な場所を見つけ、過酷な試練を乗り越えたことを象徴しています。彼らは、新しい生活を始める準備ができたことを示し、物語は希望の光が差し込む形で終わります。観客は、彼らがこれから平穏な日々を取り戻し、幸せに暮らしていけるだろうと感じられるラストです。
映画『バード・ボックス』の考察・解説(ネタバレ)
映画『バード・ボックス』に気まずいシーンはあるか?
映画『バード・ボックス』には、いくつかの気まずいシーンがあります。特に、マロリーたちが避難している家の中でのシーンがその典型です。家の中には、見知らぬ人々が集まり、皆が生き延びるために協力しなければならない状況です。しかし、それぞれが異なるバックグラウンドや価値観を持っているため、衝突や緊張が生まれます。
例えば、妊婦のオリンピアがゲイリーという見知らぬ男性を家の中に入れた場面です。家の中の他のメンバーは、外の世界がどれだけ危険か知っているので、ゲイリーを入れることに反対します。しかし、オリンピアは彼の助けを求める姿に同情してしまい、ドアを開けてしまいます。このシーンでは、家の中の人々が互いに不信感を抱き、言い争うことで、緊張感が非常に高まります。
また、ゲイリーが家の中で正体を現し、危険な行動を取り始めるシーンも非常に気まずく感じられます。彼が持ち込んだ狂気と、他の避難者たちの無力感が交錯し、観る者に強い不快感と緊張感を与えます。これらのシーンは、家の中という限られた空間での人間関係の複雑さと、極限状態での人々の本性が露呈する瞬間を描いています。
映画『バード・ボックス』の「それを見ても大丈夫な人たち」はどんな人なのか?
映画『バード・ボックス』の中で「それを見ても大丈夫な人たち」は、精神的に異常な状態にある人物たちです。彼らは「それ」を見ても、普通の人々のように自殺衝動に駆られることはなく、逆に「それ」を崇拝し、他の人々にも見せようとします。彼らはまるで「それ」に魅入られたように行動し、無理やり他人の目を開けさせようとするため、非常に危険な存在です。
これらの人々は、精神病院を脱走した者や、もともと精神的に不安定な人たちと考えられています。彼らは、普通の人々が「それ」を見たときに感じる絶望や恐怖を感じることなく、「それ」を美しいものとして受け入れてしまいます。そのため、彼らは他の人々にも「それ」を見せることが良いことだと思い込んでいます。
彼らの存在は、物語の中でさらなる脅威となり、主人公たちが単に目を隠すだけではなく、彼らの攻撃からも身を守らなければならない状況を作り出します。この設定は、物語の中で「それ」がただの怪物以上の存在であることを示し、精神の脆さや、人間の心の中に潜む闇を強調しています。
映画『バード・ボックス』の「それ」の正体は何なのか?
映画『バード・ボックス』の中で「それ」と呼ばれる存在は、明確な正体が描かれていません。「それ」は姿を見ただけで人々を自殺に追い込む謎の存在で、どのような形をしているのか、どこから来たのか、何者なのかは作中では一切説明されていません。そのため、「それ」の正体については観客の想像に委ねられています。
作中では「それ」を見た人々が、突然絶望や恐怖に駆られて自ら命を絶ってしまうシーンが何度も描かれます。「それ」を見た人々は、自分の最も深い恐怖や悲しみを幻覚のように体験し、その耐え難さから逃れるために自殺してしまうのです。これにより、「それ」は物理的な怪物というよりも、心理的な恐怖を具現化した存在として描かれています。
「それ」の正体が明らかにされないことで、物語の緊張感がさらに高まり、観客に強い不安感を与えます。多くのホラーやスリラー映画のように、はっきりとした怪物が出てこないことで、「見えない恐怖」という心理的な恐怖が際立っているのです。
映画『バード・ボックス』のラストで、盲学校にラファム先生がいたのはなぜか?
映画『バード・ボックス』のラストシーンで、主人公のマロリーと子どもたちが辿り着く盲学校には、ラファム先生がいます。彼女は物語の序盤で、マロリーが産婦人科を訪れた際に出会った医師でした。ラファム先生は、視覚障害者のコミュニティがある施設で生存しており、外の世界の「それ」を見ることができないため、彼女や他の視覚障害者たちは「それ」の影響を受けずに生活しています。
この施設は、視覚障害者が集まって生活している安全な場所として描かれており、マロリーたちが最終的にたどり着く「安息の地」となっています。ラファム先生がここにいるのは、彼女がもともと視覚障害者コミュニティの支援を行っていたためと考えられます。彼女は視覚障害者たちを守るために、この施設で生活しており、マロリーたちが到着したことで、再会を果たすことになります。
このラストシーンは、マロリーと子どもたちがついに安全な場所にたどり着き、過酷な旅を乗り越えたことを示すと同時に、視覚障害者の強さや「見えないこと」がこの世界での生存において逆に有利に働くという逆説的なメッセージも含まれています。
映画『バード・ボックス』でゲイリーはなぜ「それ」を見せようとするのか?
映画『バード・ボックス』でゲイリーが「それ」を他の人たちに見せようとするのは、彼が「それ」を見ても影響を受けない特殊な人間であり、「それ」を崇拝しているためです。ゲイリーは、「それ」を見たことで精神が異常になっており、自分と同じように他の人々も「それ」を見て受け入れるべきだと信じ込んでいます。
彼は、他の避難者たちを欺いて家の中に入り、最初は普通のふりをしていますが、徐々に本性を現します。彼は絵を描いて「それ」の姿を表現しようとしたり、外の光を家の中に入れようとしたりします。ゲイリーにとって、「それ」を見せることは人々にとって「救い」だと感じており、彼自身が「それ」に魅入られているため、他の人々にも同じ体験をさせたいと思っています。
彼の行動は、普通の人々にとっては非常に危険であり、彼が他の避難者たちの目を無理やり開けさせようとするシーンでは、彼の狂気と執拗さが際立っています。このように、ゲイリーは「それ」を崇拝し、それを見せることで人々を「解放」しようとする危険な存在として描かれています。
映画『バード・ボックス』は怖い作品なのか?
映画『バード・ボックス』は、一般的なホラー映画とは異なる形で「怖い」と感じられる作品です。この映画の恐怖は、直接的な怪物や流血シーンではなく、「見えないものに対する恐怖」や、「精神的な不安」によってもたらされます。人々が「それ」を見ると自殺してしまうという設定は、視覚に頼らずに生きなければならないという過酷な状況を生み出し、観客に強い緊張感を与えます。
映画の中で描かれる恐怖は、常に「それ」を見てはいけないという状況から生まれます。マロリーたちは目隠しをして外を歩く必要があり、どこに危険が潜んでいるかがわからないため、彼らが何かに近づいていくたびに、観客も不安や緊張を感じます。また、登場人物たちが無防備な状態で「それ」に出会ってしまう恐怖も描かれています。
さらに、精神的に不安定な人々が「それ」を崇拝し、他の人々に見せようとする行動も恐怖を増幅させます。視覚を使えないという状況がもたらす不安と、人間同士の裏切りや狂気が組み合わさることで、映画は非常に独特な恐怖感を作り出しています。直接的な恐怖というよりも、心理的な緊張感と不安感が観客に強い印象を残す作品です。
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